東日本大震災の発生から3週間後の4月1日、行方不明者の一斉捜索が沿岸部で開始された。
その数日前、我々は現地に入った。
場所は、宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区。名取川右岸の河口にある漁港の町。住宅地が密集していた。
この時点で、死亡者数は約600人、行方不明者数は約1000人だ。
通行許可証。
深部に入るには、これが必要。
沿道には、このような光景が延々と続く。
道路は、ほぼ撤去作業が完了しており、車の通行は問題ない。
河口付近。
思いのほか瓦礫は少ない。津波で奥の方に流されたと思われる。
小山に残った樹木。 (河口付近)
水没したはずだが、持ちこたえたようだ。
河口付近の仮設の瓦礫置き場。
山のように積み上げられている。ユンボが2台動いていた。
残った住宅の庭の漂流物。 (海岸から役2キロ地点)
漁船や車が民家に衝突しているところも多々あった。
瓦礫が比較的少ない民家では、家族総出で泥などを片付けているところも散見された。
流された民家。 (海岸から約1キロ地点)
田んぼの真ん中にあった。
上記家の壁に貼ってあった確認済みのテープ。
この地も地盤沈下している。
確認されたのは2週間後だ。最近になってようやく水が引いたのだろう。
原型を留めていない車。 (海岸から約1キロ地点)
上部の緑のテープは、内部確認済みの印だ。
後方の車は、ほとんど無傷のようにも見える。
捜索済みのラベル。
撤去要請の張り紙。
道路沿いの車に貼ってあった。交通の支障になるからだろう。
津波の末端付近。 (河口から約3キロ地点)
左の高架は仙台東部高速道路。正面は名取川の堤防。このあたり一面は田んぼ。
津波は高架の下を通りさらに1~2キロほど登っていたが、それほどの瓦礫はなかった。
末端付近なので、柵や盛り土が堤防代わりになってせき止められたのだろう。
大破した車も少ない。緩やかに押し流されてきたようだ。
左奥のこんもりした立ち木の下には、人が乗ったまま2時間ほど流された車がある。無事だったと聞いた。
このあたりのでは瓦礫が積み重なっていないため、数日間で比較的容易に被災者が発見された。
現在の不明者は目視では発見できない。瓦礫に埋もれているか、海に流されたかのどちらかだろう。
田園地帯では、唯一の高台だったこの高架を避難地にして欲しいという要望があったらしいが、これが実現される前に津波はきてしまった。
とろこによっては、よじ登って難を逃れたという人たちもいたと聞いた。
高速道路下の瓦礫撤去作業。 (海岸から約3キロ地点)
1~2メートルの瓦礫が積み上がっている。
撤去現場の自衛隊員。
無線機を背負った隊員と車が待機している。被災者が発見されたときの対応のためのようだ。
道路と用水掘りの瓦礫撤去作業。 (海岸から約2キロ地点)
上記現場の反対側から。
水路の幅は3~4メートル。正面は未撤去状態。右側に道路がある。
水路にはかなりの瓦礫が溜まっている。 これが200メートルくらい続いている。
このあたりは火災になっていた。焼け焦げた臭いが鼻をつく。
花をたむける消防隊員。
ローラー作戦中の消防隊。
広島の消防隊員が約50名。一列に並んで、手作業で瓦礫を除けながら確認している。
水が引いた比較的足場のよい場所を選んで実施しているようだ。
被災者が発見された模様。
担架が運び込まれる。
消防署に集められた灯油など。
軽トラが走り回り、足場の良いところから回収していた。
基本的には所有者がいるのだろうが、名前など書いてない。危険物処理だろう。
市役所の玄関。
駐車場は一杯だったが、内部もごった返していた。
右の柱は、遺体安置所へのバス乗り場になっている。
張り出されている案内類。
死亡者名簿は内部に貼られていた。身元不明者は服装や特徴が記載されている。
ボランティア事務所も開設されていた。
その案内チラシ。
おもに地元民だけに制限している。土地勘のない人の面倒は面倒だ。
宿泊場所やテント場などの紹介も難しい状態だ。
我々の隣の空家には、栃木県の医大生十数名がボランティアに来ていた。
おもにお年寄りのケアや片付けなどを手伝っていると言っていた。
遺体安置所になっているボーリング場。
内部は撮影禁止だが、どこかのニュースサイトには写真が掲載されていた。
レーンに直角に棺が並べられている。100体以上。身元不明者は顔が見られるように開けてある。
入り口には、遺体が運び込まれた日付ごとに、色分けされたラベルで分類されていた。
それぞれ10人くらいだ。ということは、2週間前の遺体も引取られていないことになる。
最近でも10人くらい運び込まれている。
ニュースでも流していたが、2週間くらい身元が確認されない方は、東京で火葬することになった。
地元の火葬場も被害を受けており、2週間先まで処理ができない状態になっている。
ちなみに、この場所には警視庁が立ち会っていた。
被災地で活動していた人々。
・広島の消防隊50人くらい。手作業で捜索。1日に100メートル四方くらいだろうか。
・自衛隊は20人くらい。立会いと一部手作業捜索。
・地元消防は数人。連絡係など。
・警察は被災地の立ち入り禁止境界に2~3人。監視と交通整理。
・瓦礫撤去用のユンボが7~8台。民間。
・ダンプが十数台。自衛隊と民間。
・マスコミはゼロ。
・ボランティアはこの地区ではゼロ。
以前の状態は知らないが、2週間以上経過しているため、体制を縮小したのだろうか。
数キロ四方の不明者を捜索するには余りにも貧弱すぎる。
被災者が埋もれているかもしれないと思われる場所で作業していた重機は数台だった。あの瓦礫量からみると何十分の一も終わっていない。
少なくとも数百台体制でなければ、早急な捜索はできそうもない。
あまりにも被害地が広すぎて、対応できないのかもしれないが、だんだん遺体の痛みも激しくなる。
何とかならないものだろうか。むなし過ぎる。
参考になったらクリックお願いします。
<補足>
我々は自主的な捜索隊だった。
かなり混雑していると思っていたが、まったく閑散としていた。
胡散臭い邪魔者扱いされるかと思っていたのだが、誰にも、何にも、言われなかった。
ヘルメットと風貌が効いたのかもしれないが・・・。
この時点では、人力では何もできなかい。圧倒的な瓦礫の前では無力感に打ちのめされた。
鉄腕アトムになりたかった。鉄人28号になりたかった。
しかしながら、神の思し召しか、思いが通じたのか、運よく目的は達することができた。
これで一区切りがつきました。お世話になった方々に感謝します。
知られざる特異な現場の状況を伝えたいとおもい、あえて掲載しました。
なぜか、こんな人が・・・。 (息抜きに)
被災地で2日間ほど見かけた。何か思うところがあるのだろうか。
○○○カゲキという人に似ているような・・・。
その数日前、我々は現地に入った。
場所は、宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区。名取川右岸の河口にある漁港の町。住宅地が密集していた。
この時点で、死亡者数は約600人、行方不明者数は約1000人だ。
通行許可証。

深部に入るには、これが必要。
沿道には、このような光景が延々と続く。

道路は、ほぼ撤去作業が完了しており、車の通行は問題ない。
河口付近。

思いのほか瓦礫は少ない。津波で奥の方に流されたと思われる。
小山に残った樹木。 (河口付近)

水没したはずだが、持ちこたえたようだ。
河口付近の仮設の瓦礫置き場。

山のように積み上げられている。ユンボが2台動いていた。
残った住宅の庭の漂流物。 (海岸から役2キロ地点)

漁船や車が民家に衝突しているところも多々あった。
瓦礫が比較的少ない民家では、家族総出で泥などを片付けているところも散見された。
流された民家。 (海岸から約1キロ地点)

田んぼの真ん中にあった。
上記家の壁に貼ってあった確認済みのテープ。

この地も地盤沈下している。
確認されたのは2週間後だ。最近になってようやく水が引いたのだろう。
原型を留めていない車。 (海岸から約1キロ地点)

上部の緑のテープは、内部確認済みの印だ。
後方の車は、ほとんど無傷のようにも見える。
捜索済みのラベル。

撤去要請の張り紙。

道路沿いの車に貼ってあった。交通の支障になるからだろう。
津波の末端付近。 (河口から約3キロ地点)

左の高架は仙台東部高速道路。正面は名取川の堤防。このあたり一面は田んぼ。
津波は高架の下を通りさらに1~2キロほど登っていたが、それほどの瓦礫はなかった。
末端付近なので、柵や盛り土が堤防代わりになってせき止められたのだろう。
大破した車も少ない。緩やかに押し流されてきたようだ。
左奥のこんもりした立ち木の下には、人が乗ったまま2時間ほど流された車がある。無事だったと聞いた。
このあたりのでは瓦礫が積み重なっていないため、数日間で比較的容易に被災者が発見された。
現在の不明者は目視では発見できない。瓦礫に埋もれているか、海に流されたかのどちらかだろう。
田園地帯では、唯一の高台だったこの高架を避難地にして欲しいという要望があったらしいが、これが実現される前に津波はきてしまった。
とろこによっては、よじ登って難を逃れたという人たちもいたと聞いた。
高速道路下の瓦礫撤去作業。 (海岸から約3キロ地点)

1~2メートルの瓦礫が積み上がっている。
撤去現場の自衛隊員。

無線機を背負った隊員と車が待機している。被災者が発見されたときの対応のためのようだ。
道路と用水掘りの瓦礫撤去作業。 (海岸から約2キロ地点)

上記現場の反対側から。

水路の幅は3~4メートル。正面は未撤去状態。右側に道路がある。
水路にはかなりの瓦礫が溜まっている。 これが200メートルくらい続いている。
このあたりは火災になっていた。焼け焦げた臭いが鼻をつく。
花をたむける消防隊員。

ローラー作戦中の消防隊。

広島の消防隊員が約50名。一列に並んで、手作業で瓦礫を除けながら確認している。
水が引いた比較的足場のよい場所を選んで実施しているようだ。
被災者が発見された模様。

担架が運び込まれる。
消防署に集められた灯油など。

軽トラが走り回り、足場の良いところから回収していた。
基本的には所有者がいるのだろうが、名前など書いてない。危険物処理だろう。
市役所の玄関。

駐車場は一杯だったが、内部もごった返していた。
右の柱は、遺体安置所へのバス乗り場になっている。
張り出されている案内類。

死亡者名簿は内部に貼られていた。身元不明者は服装や特徴が記載されている。
ボランティア事務所も開設されていた。

その案内チラシ。

おもに地元民だけに制限している。土地勘のない人の面倒は面倒だ。
宿泊場所やテント場などの紹介も難しい状態だ。
我々の隣の空家には、栃木県の医大生十数名がボランティアに来ていた。
おもにお年寄りのケアや片付けなどを手伝っていると言っていた。
遺体安置所になっているボーリング場。

内部は撮影禁止だが、どこかのニュースサイトには写真が掲載されていた。
レーンに直角に棺が並べられている。100体以上。身元不明者は顔が見られるように開けてある。
入り口には、遺体が運び込まれた日付ごとに、色分けされたラベルで分類されていた。
それぞれ10人くらいだ。ということは、2週間前の遺体も引取られていないことになる。
最近でも10人くらい運び込まれている。
ニュースでも流していたが、2週間くらい身元が確認されない方は、東京で火葬することになった。
地元の火葬場も被害を受けており、2週間先まで処理ができない状態になっている。
ちなみに、この場所には警視庁が立ち会っていた。
被災地で活動していた人々。
・広島の消防隊50人くらい。手作業で捜索。1日に100メートル四方くらいだろうか。
・自衛隊は20人くらい。立会いと一部手作業捜索。
・地元消防は数人。連絡係など。
・警察は被災地の立ち入り禁止境界に2~3人。監視と交通整理。
・瓦礫撤去用のユンボが7~8台。民間。
・ダンプが十数台。自衛隊と民間。
・マスコミはゼロ。
・ボランティアはこの地区ではゼロ。
以前の状態は知らないが、2週間以上経過しているため、体制を縮小したのだろうか。
数キロ四方の不明者を捜索するには余りにも貧弱すぎる。
被災者が埋もれているかもしれないと思われる場所で作業していた重機は数台だった。あの瓦礫量からみると何十分の一も終わっていない。
少なくとも数百台体制でなければ、早急な捜索はできそうもない。
あまりにも被害地が広すぎて、対応できないのかもしれないが、だんだん遺体の痛みも激しくなる。
何とかならないものだろうか。むなし過ぎる。


<補足>
我々は自主的な捜索隊だった。
かなり混雑していると思っていたが、まったく閑散としていた。
胡散臭い邪魔者扱いされるかと思っていたのだが、誰にも、何にも、言われなかった。
ヘルメットと風貌が効いたのかもしれないが・・・。
この時点では、人力では何もできなかい。圧倒的な瓦礫の前では無力感に打ちのめされた。
鉄腕アトムになりたかった。鉄人28号になりたかった。
しかしながら、神の思し召しか、思いが通じたのか、運よく目的は達することができた。
これで一区切りがつきました。お世話になった方々に感謝します。
知られざる特異な現場の状況を伝えたいとおもい、あえて掲載しました。
なぜか、こんな人が・・・。 (息抜きに)

被災地で2日間ほど見かけた。何か思うところがあるのだろうか。
○○○カゲキという人に似ているような・・・。
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最終更新日 : -0001-11-30